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奈良県の1000件を超える国宝・重要文化財が学べるデジタルブックを作りたい!

『楽しく学べる ならの文化財』2
「引き継がれる大仏造立の思い」-聖武天皇から重源上人と公慶上人へ-

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新しいデジタルブックの作成を目指し、改訂前の『奈良の遺跡&史跡案内』の中から、文化財にかかわる秘められた歴史やエピソードを紹介したり、改訂に向けた新しい内容を紹介する企画『楽しく学べる ならの文化財』を始めています。
第2回は、改訂に向けた新しい内容として、聖武天皇による大仏の建立とその復興にかかわる重源上人と公慶上人のエピソードを紹介します。

再建を繰り返した大仏は、どんな思いで造られ続けたのか

 「大仏建立の詔」には「如し更に人有りて、一枝の草、一把の土を持て、像を助け造らむと情に願はば、恣に聴せ」とあります。聖武天皇は、大仏造りを手伝いたいという人々の小さな力と思いを集めて、大仏を造ろうとしたのです。この詔が出された後、民衆に慕われていた行基も大仏づくりに参加しました。こうして752年、東大寺の大仏は完成したのです。
 しかし、平安時代の終わりごろ、大仏は争いにより焼かれてしまいます。『平家物語』には、平氏の軍勢と東大寺の僧兵の争いにより、大仏殿に兵火を逃れようとして集まっていた1000人以上の人々とともに、大仏は焼け落ちてしまったと記されています。
 焼け落ちた大仏の復興を任されたのは、当時60歳を超えていた重源上人です。重源は、同じ思いの人たちと協力し、全国から寄付を集めました。そのときの記録には「尺布寸鉄といえども、一木半銭といえども」という言葉があります。布切れや鉄くぎ、木切れやわずかなお金など、みんなの小さな力を集めて、東大寺の大仏を復興しようとしたのです。こうして1185年、復興した大仏開眼供養が行われました。
 ところが1567年、三好氏と松永氏の争いの中、大仏殿は再び炎上し、大仏も崩れ落ちてしまいます。体の部分は復興できたものの、重い頭を乗せることができず、木でつくった軽い頭部に銅板をはっただけで、大仏殿もありませんでした。以後、江戸時代の中頃まで100年以上も大仏は雨ざらしだったのです。
 そのことに心を痛めていた公慶上人は「天下の仏心を集めて一仏となす」として全国をまわり「一針一草の喜捨」をとなえ、多くの人々から少しずつ寄付を募りました。公慶は大仏殿の復興を前にして58歳で過労により亡くなってしまいます。しかし、その思いにより復興された大仏殿は今に伝わり、国宝であるとともに、現存する世界最大の木造建造物として世界遺産にも登録されています。

『奈良の遺跡&史跡案内』8ページ「行基像」

9ページ 「東大寺」