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奈良県の1000件を超える国宝・重要文化財が学べるデジタルブックを作りたい!

『楽しく学べる ならの文化財』3
「聖徳太子」-飛鳥が生んだ永遠のスーパーヒーロー-

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新しいデジタルブックの作成を目指し、改訂前の『奈良の遺跡&史跡案内』の中から、文化財にかかわる秘められた歴史やエピソードを紹介したり、改訂に向けた新しい内容を紹介する新企画『楽しく学べる ならの文化財』を始めています。
第3回は、改訂前の『奈良の遺跡&史跡案内』の中から、聖徳太子についてのエピソードを引用します。
(活動報告の字数制限上、文面はオリジナルを一部変更してあります。)

一度に10人の話を聴き、法律や位を定め、斑鳩を愛した聖徳太子

 574年、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれたのが厩戸豊聡耳皇子、のちの聖徳太子だ。『日本書紀』には、太子は「聖(ひじり)の智があり。一度に10人の訴えを聴いてまちがえなかった」と書かれている。7歳にしてお経を読破した、救世観音菩薩の生まれ変わりだったなど、太子にまつわる言い伝えは数多い。
 593年、太子が20歳のとき、推古女帝の即位と同時に、太子は摂政として政務全般を任される。太子は、国民をまとめる精神的な柱として仏教を積極的に取り入れ、新しい国づくりに乗りだす。まず、603年、氏や姓で仕事や身分が決まっていた古いしきたりを打ち破るため「冠位十二階」を定め、604年には日本最初の憲法「十七条の憲法」をつくっている。また、607年には小野妹子と使者として隋(中国)に送り、大陸との交流を進めていく。当時、大国だった隋の皇帝には、「日が昇る国の天子が、日の沈む国の天子にお便りします」という手紙を送っている。一つの国として対等だということを、手紙の書き出しだけでさらりと表現するなど、太子は文才のある戦略家でもあったのだ。
 さまざまな偉業を残した太子が住み、仏教文化の中心地として選んだのは、蘇我氏の影響の強い飛鳥ではなく、20キロメートル近くはなれた生駒山のふもとの斑鳩。太子は愛馬「黒駒」にまたがって斑鳩宮から飛鳥まで通い、政治を行った。そのとき通った道が「太子道」として、今も残っている。
 太子が亡くなったのは622年2月22日、49歳だった。『日本書紀』は、「月日輝きを失いて、天地すでに崩れぬ。今より後だれをかたのまん」と最大級の悲しみの言葉を記している。今の時代にも語り継がれる聖徳太子は、古代のもっとも聡明で有名なスーパースターだったのだろう。

『奈良の遺跡&史跡案内』40ページ

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