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日本・タイのアーティストが、政治と個の相克をテーマにバンコクで国際共同制作を行います|演劇

クレオンは愚かではあるが、決して暴君ではない

2016 年 12 月 20 日 17:08

一般社団法人shelf
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2月の「GHOSTS‐COMPOSITION/IBSEN」@TPAM2017フリンジ参加作品の前に、並行して集まれる俳優で、3月のアンティゴネ(「Antigone/border-line」@バンコク)の稽古もしています。

先日は、クレオン(国王)vsハイモン(王の息子、アンティゴネの許嫁)の対立のくだり。ここを何度も繰り返し議論を重ねながら俳優たちと読み合わせをしました。

今回は基本的に、矢野の演出プランとしては出来る限りタイトルロールであるアンティゴネではなく、王クレオンの「台詞」を中心に、もっと正確に言えば、軸足をクレオンの語る「理」に置いて考えてみたい。と思い、も何度も読み返しています。

クレオンは王=支配者の大権を敬う

丁寧に読めば、クレオンが決して己れを過信したり尊大になったりしているわけではなく、国に選ばれた支配者としての責務を尊重し敬っている。という彼の、或いは当時の政治体制の「理」が読み取れるのではないでしょうか。

また例え王の命令が、不正なものであったとしても!(それはクレオンが劇中で明言しています)それに「不服従」たること、そのことを絶対の悪としているのは、当時の参政権を持つ市民(女性・奴隷を除いた)のすべてが、国を守るために戦争に出ていく責務を負った者たちだったことを考えると、決して理解の及ばないことではない。

戦争で指揮系統が乱れることこと危険なことはない。付け加えるなら戦争が正しいかどうかはここでは一切問題ではない。殲滅するか、殲滅せられるかの極限状態で、正義は勝者の側にしか与えられないのは歴史が証明しています。というと少し言い過ぎかもしれませんが...

それから先日の稽古で改めて思ったことには、いったいこの人物たちは、この長い長い台詞を誰に向かって発語しているのか? ということ。それを考えたときに改めて、ギリシア悲劇における「コロス」という存在の重要性に思い至りました。

乱暴なのですが、ギリシア悲劇のコロスは、例えば、黒澤明監督の映画『七人の侍』(1954年)における「百姓たち」みたいな存在なんじゃないだろうか? という。(ラストの田植え歌のシーンの志村喬の有名な台詞、「今度もまた負け戦だったな。勝ったのはわし達ではない、あの百姓達だ。」が強く想起されます。)それは固有名のない「民衆」、「衆愚」と言ってもいい。それが最後に勝つ。そしてすべてのヒーローは敗北する。クリストファー・ノーラン監督『ダークナイト』等も、その系譜にあるのかも知れません。...少し無理筋でしょうか。

ともあれこの点については、もう少し考え続けてみたいと思っています。

『七人の侍』(1954年)

黒澤明監督

『ダークナイト』(2008年)

クリストファー・ノーラン監督